2001年3月号(Vol.1)掲載

壁と僕とベルリンと
第1回 「チェックポイント・チャーリー」
松浦 孝久

 僕はその日、地下鉄の出口を出て階段を上り、道路に出た。 「この先にあるはずだぞ。有名なチェックポイント・チャーリー。ベルリンの壁といえばチェックポイント・チャーリーだもんね。あれ、出口を間違えたのかな。 観光客っぽい人たちはたくさんいるけど、それらしいものは見えないな。もう少し歩いてみるか。おや、あの小屋は? 看板がかかってるぞ。えっ、Checkpoint Charlieと書いてあるじゃないか。これが? あの有名な検問所のチェックポイント・チャーリー? "東側への玄関"としてベルリンの歴史に必ず出てくるにしては、なんだか大したことないなー」
 これがこれがチェックポイント・チャーリーを見た私の素直な感想だった。


地下鉄の出口を出た所。
この先に有名なチェックポイント・チャーリーがあるのだが、一見、何のことはない普通の街並みだ。
しかし、こんな当たり前の風景の中に、都市を分断し人の命まで奪う壁が存在するのもベルリンという街の特殊性だ。


 警備の兵士がぞろぞろいて、装甲車なんかもズラリと並んでいるような、もっとインパクトのある場面を期待していた僕は、拍子抜けしてしまった。 「検問所」といっても小屋が立ってるだけで、検問らしきことは何もしていない。 ベルリンが東西に分断され、当時の米ソ冷戦の接点ということは知っていても、この風景はまったく緊張感を欠くものだった。(後で知るところによると)それは当然のことだった。チェックポイント・チャーリーは米英仏の西側連合国側の検問小屋で、実質的には検問作業は行っていなかったのだ。
  ベルリンの壁、いきなり失敗か! と思ったのは束の間のことだった。ベルリンの壁とは底知れぬ恐ろしさを持った存在であることを、そのあと僕はすぐに知ることになった。

これがチェックポイント・チャーリー。
一応、西側3か国(米英仏)の共同の検問所なのだが、実質的には検問はしていない。
この先の東ベルリン側に本物の検問所がある。
この検問所を利用して東西ベルリンを行き来できたのは、外国人(ドイツ人やベルリン市民以外)や外交官、米英仏ソの軍人。
ドイツ人・ベルリン市民用には別の検問所があった。


 チェックポイント・チャーリーの向こう側に目をやると、道路を横切るように白い線が引かれていた。これが東西ベルリンの本当の境界線で、その先には遮断機があったり、いかつい軍服を来た兵士が立っていた。
「えっ、ということは、この先にあるのが東ドイツ側の検問所ってことか。あの兵士、双眼鏡でこっちを見てるじゃないか。あそこにはカメラを持ったのもいるぞ。あの白線を越えると写真を撮られるのか、まさか逮捕されるのか。なんだか、物々しい雰囲気だな。ホンモノの検問所はこっちの方か」



これが東ベルリンへの本当の入り口である東ドイツ側の検問所。
画面手前を横切っている白い線が東西ベルリンの境界。
右側に立っている看板は米軍のもので、「アメリカ占領地区はここまで」という言葉が英語、ロシア語、フランス語、ドイツ語で書かれている。
1990年のドイツ統一まで、条約上はベルリンは米英仏ソによる占領状態が続いていた。


監視小屋から西ベルリン側を見る警備兵。
写真では見にくいが、左側の窓の後ろには天体望遠鏡のようなものがある。
これは大型の望遠レンズで、カメラも取り付けてあり、西ベルリン側から挑発行為などがあった際に顔写真を撮るためのものだ。



手前に見えるのが「壁」。
その向こうに東ベルリン側の検問所がある。小屋のような詰め所も見える。
中には警備兵がいて、検問所を出入りする人や、こちら側から挑発する者がいないかなどを見張っている。



なんだかんだ言って、自分も白線を踏み越えて東ベルリン側に立ち入ってた。
市民や観光客が散歩している姿も見えるが、壁際を歩いている人たちは、白線より東ベルリン側に入っていることになる。
監視こそ厳しいけれど、西側の市民が線を越えていても壁際を歩く程度のことは問題なかった。
実際問題として、東ドイツも壁の西側のことまで取り締まるほど余裕はなかったといえる。


 「壁に沿って散歩している人が多いな。壁伝いに歩いていれば道に迷うことも ない し、車も通らないから静かだし…。車をとめるちょっとしたスペースもあるし。 ……
 あそこ、壁の前に 何か立っているぞ。大きな十字架?
 もしかして、こんな街中で亡命者が射殺されたとか…」


チェックポイント・チャーリー近くの壁。観光客も地元の市民も、徒歩で、自転車で、散歩する人が多い。
また、壁により道路も行き止まりになっているためか、ちょっとしたスペースには車がとめられていることも多かった。



ペーター・フェヒターの死を悼む十字架。
ベルリンの壁沿いには、亡命に失敗して命を落とした人を慰める墓標がたくさんある。


 1962年8月17日。壁が築かれて約1年後、東ベルリンに住んでいたペー ター・フェヒター(当時19歳) は、西ベルリンに親族がいたため亡命を決意し、職場の同僚と決行した。当時は壁は2メートルほど、これを乗り越えようとした際、警備兵に発見され、銃撃を受けたという。
  同僚は無事に西側へ逃れたものの、フェヒターは胸や足に被弾、壁の向こう側に崩れ落ち、倒れた。東側の警備兵は彼を助けることもせず放置したまま。壁のこちら側では多くの市民が、この悲劇的なドラマを目の当たりにしていた。
  西ベルリン警察は包帯などを投げ入れたりして、何とか彼を救おうとしたが、結局、フェヒターは動くこともなく、そのまま息絶えた。そして銃撃から50分もたってから、東側の警備兵はフェヒターの遺体を収容した。
 東ドイツでは「亡命」は犯罪とされていた。ベルリンの壁では、このような法に名を借りた殺人行為が当たり前のように行われていたのだ。

 執筆/画像提供  松浦 孝久
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