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2002年3月号(Vol.13)掲載 (2019年7月8日リニューアル掲載)
壁と僕とベルリンと | 松浦 孝久 |
ベルリンでは運河や川も重要な交通機関だ。ここシュプレー川でも砂利や石炭などを運ぶ船が頻繁に行きかっている。しかし同時にシュプレー川そのものは東ベルリンなので、当然のことながら東ドイツ国境警備隊の軍用ボートが我が物顔で走り回り、厳しい警戒態勢を敷いている。カメラを向けると中の警備兵が双眼鏡でじーっと見てくるのは監視塔の警備兵と同じだ。しかし見られるのは慣れている。
「それより本当に恐いのは川が東ベルリンに属しているということ自体だ」
と僕は思った。
壁(金網)は向こう岸にあるのだが、本当の境界線は「こちら側の川岸」にあるという状況。岸辺には高さ1メートル程度の柵しかない。「生命の危険あり。川に注意」と岸辺には看板が立っていて注意を促してはいる。しかし万一、川に転落したら、救助活動をするのは西側、東側、どちらだろう?そもそも救助活動など行われるのか?これについて現在では西ベルリン-東ドイツの間に協定があって、西ベルリンの消防や警察が救助活動をすることが認められている。しかし、この協定が交わされるまでには悲劇の歴史があったのだ。
1975年5月11日。西ベルリン在住のトルコ人、チェティン・メルトュは、この日、5歳の誕生日を迎えた。午前中は父親や兄弟たちとピクニックに出かけたりして楽しい誕生日を過ごしていたチェティンだったが、午後になって悲劇は起きた。シュプレー川沿いで友達と遊んでいたチェティンが、川に落ちたボールを棒を使って拾おうとしたところ川に転落。正午ごろのことだった。通報により4分後には西ベルリン市の警察と消防が駆けつけ、その15分後には消防の潜水隊も到着した。しかし、現場の川が東ベルリン側であったことが最悪の結果を招いた。彼らが救助活動を行うことは、東ドイツの国境警備隊に拒否されたのだ。川岸からの西ベルリン警察・消防の呼びかけに対し、警戒中だった東独軍用ボートの警備兵が拒絶したという。東西ベルリンのそれぞれの消防本部を結ぶ電話線は、1966年に東側により一方的に切断されたままだった。
しばらくして東側がようやく自分たちのアクアラング隊を出動させ、救出にあたったが、幼いチェティンはすでに帰らぬ人となっていた。約2時間後の午後2時15分だった。この間、西ベルリン側の警察や消防は手を出せぬまま。米ソの激しい対立を反映した冷戦の影響下、西ベルリン当局が救助活動を強行することをためらったのも事実だ。東ドイツ側は、この事件について「悲しい事故」と表現したものの、「事態発生を把握してから救助活動は遅滞なく行われた」と責任逃れの強弁に終始するばかりだった。西ベルリン側では東ドイツの対応に怒った市民たちがデモを展開、東独を「人殺し」とののしるシュプレヒコールで気勢を上げた。
実は当時、西ベルリン市当局と東ドイツの間では、境界水域で事故が起きた場合の救助について協定を結ぶべく交渉が続けられていた。西ベルリン市民による抗議デモも手伝ってか、この交渉は加速した。そして、この年の10月29日、協定が発効、この場所のように地図上では東ベルリン側に属する水域であっても、水難事故については西ベルリン側からも救助活動が行えるようになった。西ベルリン側では、こうした悲劇がたびたび起きており、1966年以来、子供の犠牲者はチェティンで5人目だった。この協定ができてからは水際で起きた事故の死者は出ていない。チェティンの遺族は毎年の命日に法事を行っているという。
東側から亡命しようとして銃殺されるケースは嫌というほど聞かされるが、ほとんど語られることのない西ベルリン側の犠牲者…。これも壁がもたらした悲劇に違いない。
執筆/画像提供 松浦 孝久 |