2003年2月号(Vol.23)掲載 (2020年7月11日リニューアル掲載)

壁と僕とベルリンと
第20回 「所有者」って誰だ?
松浦 孝久

 集合住宅や貨物線、ゴミ捨て場など、わさわさした雰囲気の一帯を過ぎると街並みは一変する。ちょっと余裕のある人たちが週末を楽しむ、いわゆるクラインガルテンが壁際に広がっている。のどかさが漂っているが、しばらくは壁際を歩けない。壁の方に向かっていく道で、部分的に拝める程度だ。

両側にクラインガルテンがあって壁際は歩けない。遠くに壁が少しだけ見え、道が途切れているのが分かる。

道の〝終点〟。白い看板は米軍が立てたもので、英語とドイツ語で「アメリカ占領地区はここまで」と記されている。

道の終点から右手を見たところ。壁際はクラインガルテン利用者たちのゴミや廃材置き場になっているみたいだ。

左に鉄製の高い物見台があるのだが、残念ながら入り口にはカギがかけられていて入れなかった。


 そのうち高さ数メートルの、日本で言う古墳(あるいは貝塚?)のような高さを持った土手に突き当たった。
 フェンスが立っていて中に入れないようになっているが、土手は壁の方に続いているので、とりあえずこれに沿って歩いてみた。すると土手が壁にぶつかるあたりでフェンスが途切れている。そこから上ってみると、その土手はかつての鉄道の線路だった。市内や近郊を走るSバーンだ。レールはすっかり錆びつき、敷石の間からは草木が伸びている。
 東ベルリンの方に目を向けると…。壁の部分でレールどころか土手そのものがなくなっている。東ドイツが壁を作った際に撤去したらしい。無人地帯の向こう側に、土手の続きと思しき盛り土が見えるが、レールは取り外されているようだ。「もう電車が走ることもないんだな」と思うと少し寂しくなる。同時に「それならなぜ西ベルリン側も土手を崩して道路とかにしないんだろう?」という疑問も感じたのだった。土地の有効利用という発想はないのか。と思いつつ土手を降りていくと、フェンスのそばに看板が立っているのに気づいた。「鉄道施設への立ち入り禁止――所有者」とだけ記されている。何ということはない、普通の立て札にしか見えない。しかし「所有者って誰だ?」。普通は「○○市」とか「○○警察」とか具体的に書かないか?

鉄道(Sバーン)跡地の土手。右に問題の立て看板がある。その後ろから土手に上がれるようになっている。

看板のアップ。「鉄道施設への立ち入り禁止」とあり、右下に見えないくらいに小さく「所有者」と記されている。

土手に上がってみると、朽ち果てたレールが残っている。東ベルリン側は土手そのものがなくなっている。

土手の上から左手を見ると壁と無人地帯が広がっている。


 ベルリンの重要な交通手段だったSバーンは戦後、東ドイツの「ドイツ帝国鉄道」が管理することになったので、必然的にSバーンも東ドイツ側に帰属した。そして壁建設により東西ベルリンが分断されると事態は複雑化、西ベルリンのSバーン運行は危機に陥ったこともあったが、1984年1月に東独-西ベルリンの間で協定が成立した。西ベルリンが東ドイツから買い上げる形をとり、Sバーン運行は続けられることになった。その際、西ベルリン内のすべての路線を買い取ったわけでなく、残された路線は電車が走ることもなく放置され、荒れるに任されている。それでも、こうした路線はあくまでも東ドイツ側の所有だ。

土手の上から右を見ると、東ベルリン側にはアパートが立ち並んでおり、それを見張るように2基の監視塔も立っている。


 謎は解けた。看板に出ている「所有者」とはドイツ帝国鉄道、つまり東ドイツだったのだ。だからこそレールも土手も西ベルリンが勝手に撤去することはできず、放置されているのだ。ただし無用のトラブルを避けるため一般人の立ち入りは禁止した方がいい、と判断した西ベルリン側が例の看板を立てた――。これが僕の推測だ。
 さらに推理するなら、「立ち入り禁止――ドイツ帝国鉄道」とせずに、わざわざ「所有者」とあいまいに書いたのは、西ベルリンの意地を見せたのだろう。東ドイツを意味する名前を公式の看板に使いたくないからだ。その証拠に「所有者」が、ものすごく小さな字で書かれている。こんなところにも東西間の〝バトル〟が見て取れる。「ベルリンって面白いなあ」。

無人地帯をパトロールするオートバイの警備兵。必ず2人組なのでバイクも2人乗りだ。

 

 執筆/画像提供  松浦 孝久
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