2005年3月号(Vol.44)掲載 (2022年8月29日リニューアル掲載)

壁と僕とベルリンと
第37回 白い車の女。「あなたはスパイですね」
松浦 孝久

 西ベルリン西郊の境界地帯で、古い壁を壊して新しい金網に建て替える工事が行われている。見逃してはならぬとばかりに僕は出かけてきた。現場の数十メートル手前まで来ると、重機のグウォーンという音が響いてくる。付近を走る車の音くらいしか聞こえないこの場所には不似合いなほどの大音量だ。境界線際にある木の茂みに入り込んで工事を見ていると、向こうからカメラを持った警備兵が現われ僕の顔写真を撮ろうとする。そんなことにはめげず、工事の進展を見届けようと翌日もしつこく現場を訪れると、例によってカメラの兵士が来た。互いに写真を撮ろうと意地になってレンズを向け合っているうちに、ある人物が西ベルリン側から僕に近寄って来た。敵なのか味方なのか……。

古い壁を金網に建て替える工事が行われているはずの現場。平日なのになぜか作業は休み。周辺はシーンとしている。

工事が休みで、古い壁の上に付いていたパイプが取り外されたまま放置されている。
アリ一匹逃さぬ警備体制を敷く東独には珍しいズサンさだと思う。

日を改めて現場に出かけると工事が行われていた。
重機が並び、仮設フェンスに囲まれた作業員や警備兵の姿が見える。この辺にいても工事の大きな音が聞こえてくる。

現場から20メートルほどの所で工事を見るイギリス兵。武装はしていないようだが軍服姿。
偵察とかパトロールといった任務ではなく、散歩中にふらりと立ち寄り、興味本位で見物しているという感じだ。

イギリス兵の姿を見つけると東独の警備兵が血相を変えて飛んできた。
それを見たイギリス兵もあわてて西ベルリン側へ走って逃げる。右側の人物は現場指揮官らしい。
僕のカメラに顔が写らないよう後ろを向いてタバコに火をつけている。左の兵士はカメラを構え僕らの写真を撮ろうとしている。

カメラを持った警備兵。
僕のカメラを警戒して木の陰に身を隠していたが、様子を伺おうと顔を出した一瞬を逃さずパチリ。

さらに翌日、しつこく工事現場を訪れると警備兵も再び登場。
カメラの兵士は同じようだが、指揮官らしき人物は昨日とは違うみたいだ。
やはり顔を撮られまいと後ろを向くのは同じだ。オレンジ色の物体は西ベルリン側のゴミ箱。


 この現場は閑静な街道の側道沿いにある。側道といっても走るためではなく、休憩するために車を止める駐車スペースとでも言うべき場所だ。売店やトイレがあるわけでもなし、周辺に娯楽施設もない。わざわざ立ち寄る人なんかめったにいない場所だ。そこへ彼女は白い車(フォルクスワーゲン・ビートル)に乗って入って来た。僕の背後20メートルほどの所に車を止めたその女はジーンズ姿。30歳前後だろうか。ドアを閉めるとまっすぐ僕の方に向かって歩いて来る。
「ハァーイ。」
 なんと話しかけてきた。
「あなたは日本人ね?」。
 しかも英語だ。
「学生さん?」
 と畳みかけてくる。
 東独の警備兵とにらみ合っているところへ現われた西ベルリン市民だったことで、僕もさしたる疑問を抱かず、彼女の問いかけに合わせるように話をした。
「あそこにカメラを持った警備兵がいるでしょ。あの人が僕の写真を撮ろうとしてるんですよ。」
「あら、それなら私みたいな美人を撮らなくちゃねぇ。」
 逆に僕の方から
「ところであなたは、ここへ何をしに来たのですか?」
と聞くと、
「仕事の帰りにちょっと寄っただけよ」
と女は答えた。

老朽化した壁。工事が徐々に進むと、ここも取り壊され、金網に作り変えられる。

前の写真と同じ場所で撮影。古い壁が見事、真新しい金網に変身した。

右方向に分岐していく側道の脇に境界(壁)がある。
中央に見えるワゴン車は西ベルリン警察のパトカー。ここに女スパイが乗った白い車も入って来たのだ。

郊外だけあって無人地帯も幅が広い。背後の森林とは対照的に、無人地帯には草も木も生えていない。
警備しやすいように木々は完全に伐採し、除草剤を使って草も根こそぎ処理する。

警備を補強するため無人地帯には軍用犬が配置されている所もある。
その軍用犬にエサや水をやる場面。中央の兵士はバケツを持っている。
左端に見えるトラックから肉の塊のような物が犬に与えられていた。

壁に開いていた穴から無人地帯をのぞいたところ。
2人の警備兵は昼食の時間とみえて、パンをかじりポットのコーヒー?を飲んでいるところだった。


 あとから考えると絶対に怪しい。僕の身元チェックをするために来たとしか思えない。妙齢の女性がわざわざ寄る所じゃないし、まして僕みたいな東洋人に興味を持って話しかけることなんて考えられないし……。とすると、彼女は東側のスパイだったのか。僕にもっとしたたかさがあれば、「何のために僕の人定をするんですか?」「仕事の帰り、ってずいぶん早い時間ですねぇ」と突っ込んだり、彼女の車の中をのぞいて無線機などがないか見たり、ナンバーを控えたり、さらに彼女の顔写真を撮るなどしてプレッシャーをかけたはずだ。彼女が車で立ち去ってからだった。「もしかしてスパイ?」と感じ始めたのは。

西ベルリン税関の車。拳銃で武装した税関職員が境界地帯をパトロールすることが多い。
車の中から壁の方を双眼鏡で見ている。

こちらもベルリンの壁周辺をパトロールする(はずの)西ベルリン税関職員。
東屋でついウトウト……。連れているシェパード犬は、僕の方に警戒の視線を向けている。

警備兵を乗せたトラックが兵舎へ帰るため無人地帯を出るところ。
金網のドアを遠隔操作で開けてもらうため、トラックの左側に立っている兵士が電話で連絡をとっている。
国境警備隊の車両ですら自由な出入りはできないほど厳しい監視体制だ。


 スパイといっても色んな種類がある。映画や小説に出てくるように、トレンチコートに身を包んだ秘密諜報員が、アタッシェケースに偽造パスポートを忍ばせて敵国に侵入するばかりではない。西ベルリン市民として普通に生活しながら、西ベルリンで得られる情報を東独の秘密警察(=国家保安省)に提供する者も多いと聞く。もちろん彼らは東独秘密警察の息がかかった協力者である。彼女がこうした類の情報提供者だとしたら、「壁の工事現場にしつこく通う怪しいアジア人がいるから、どんな人物か探れ」という指令があったに違いない。あるいは「少なくとも(壁の破壊を企てるなど)敵対的な人物でないかどうか確認せよ」といった指示だったのかも知れない。

シュターケン検問所。ベルリンという大都市からは想像できないようなひなびた風情だが、
西ベルリンから西ドイツへ行くための道路があるため、交通量は多い。

検問所を撮影する僕を見つけた警備兵が司令部に電話で連絡している。
左側に立っているのは三脚に据え付けられたカメラ。望遠レンズが光っている。

司令部に連絡した後、僕の写真を撮る警備兵。
左手に座っている別の警備兵が振り返って様子を見ている。
タレントでもないのに、あちこちで写真を撮られるなんて……。

シュターケン検問所の入り口。
車が入っていくのが見えるほか、右手の歩道には女性2人が歩いて検問所に向かっている。
おそらく東独の市民が西ベルリンの親族などを訪ねた帰りだろう。
両手の荷物は、東ドイツでは手に入りにくいオレンジとかバナナかな?


 こうした情報提供者と、スパイの元締めである東独の秘密警察とは普通に電話や無線機で連絡を取り合うほか、真偽は定かではないが、東独の国営ラジオで深夜に流される数字を羅列した暗号で西側にいるスパイに活動指令が与えられるとも言われる。女が去ってからこんな話を思い出した僕は、帰り道には気をつけた。後をつけている人物がいないか、ときどき後ろを振り返った。自宅近くでは、いつも降りるバス停のひとつ手前で下車したうえ、回り道までして帰宅、久しぶりに緊張感に包まれた1日となった。

境界地帯をパトロールするイギリス軍の車両。右手に無人地帯と監視塔が見える。
英軍はこうしたトラックのほか、機関砲を装備した装甲車も壁際でのパトロールに投入している。

パトロール中のイギリス軍兵士。物見台に上って検問所の様子を確認している。
右手の壁の向こうに見える東独側の監視塔では、警備兵が必死になって英軍兵の写真を撮っている。

シュターケン検問所入り口手前に軍用トラックをとめた英軍兵は、なんと自動小銃を取り出して東独側の検問所の方へ歩き出した。
えっ、まさか突っ込むのか! と思ったら、検問所をバックに記念撮影してました。東側の警備兵は焦っただろうな。

 

 執筆/画像提供  松浦 孝久
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